地域の歴史

2013年5月27日 (月)

「旧碓氷線」(国指定重要文化財・鉄道近代化遺産)をあるく

Dscn3267s Dscn3271s_2 ハイキングクラブの皆さんを案内して「横川駅」から「旧熊ノ平駅」まで要所で説明をしながら歩きました。(約6.3キロメートル)「碓氷Dscn3273s の関所」では、保存会の皆さんが清掃をしていたので、ついでに説明をお願いしました。江戸後期の4大関所、箱根、新居、木曽福島、碓氷。他の3箇所は国の補助事業で立派に復元、資料館もできていますが碓氷だけ、取り残されています。早急な整備を望んでいます。つぎに1997年9月30日に「長野新幹線」開業を前にして廃線となった「旧碓氷線」を歩きました。元は信越本線でしたが、群馬県側では横川止まりとなり、軽井沢までDscn3275s の11.2キロメートルが廃止されバスに転換されてしまいました。その後、レンガつくりの鉄Dscn3282s Dscn3286s 道施設が「国指定重要文化財・鉄道文化遺産第1号」に指定さDscn3291s れ、下り線を遊歩道に改修され人が歩けるようになりました。めがね橋の手前のトンネル出口は、女優吉永小百合さんがJRのポスターに起用して有名になりました。写真、野生のサルの親子が歓迎してくれました。2、上信越道路の真下を歩きます。3、丸山変電所あと、4,1号トンネルの出口、5、3,4、5号トンネルが見えます。6、碓氷第3橋梁、通称めがね橋、7、6号トンネル、もっとも長い(546m),S字カーブしていて、中ほどに明り取りの窓と煙出しの窓が開いているめずらしいトンネル。蒸気機関車がトンネルに入ると同時に大きな幕を引いて煙と風を遮断、煙がトンネル内を充満しないように、幕引き番の小屋がありました。そのためにこの区間が日本で初めて電気機関車の運行となりました。

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2010年7月30日 (金)

「世界遺産登録をめざす」鉄道遺産群を愛する会の講演会を聞きました。

Photo 安中市のユネスコ協会などが中心となって「富岡製糸ほか絹産業遺産群」のユネスコの世界遺産登録をめざそう、という趣旨で3 結成された「鉄道遺産群を愛する会(矢野薫会長)」は、碓氷峠の旧信越本線横川ー軽井沢間の鉄道施設が、国の重要文化財近代化遺産5 第一号の認定(平成6年12月指定)を受けていることから、この運動を盛り上げていこうと活動しています。具体的な事業は、「世界遺産登録を」ののぼり旗や看板の設置、鉄道遺産眼鏡橋(旧碓氷線第3橋梁)ウォーキング、講演会などに取り組んでいます。この日(7月28日)は市内会場で約40人が集まり、郷土史研究家、萩原豊彦氏、および西毛県外支部長、福田友三郎氏による講演が行われました。萩原氏は旧碓氷線の鉄道が明治24年3月から25年12月にかけて、全長11.2キロメートル、最大勾配66.7‰、16のトンネル、18の橋梁を持つ軌道敷というきわめて難工事をわずか1年8ヶ月の短期間の突貫工事で完成させ、明治26年4月に開業、初めてアプト式による蒸気機関車で峠越えが実現したこと。このトンネルと橋梁に使われたレンガは、当時のレンガ建造物では最大の東京駅810万個を大きく上回る、2000万個を超えるレンガが使われたという由緒ある建造物であること、中間にある熊ノ平駅に残されている「碓氷鉄道の碑」の詳しい解説などが行われました。続いて福田氏からは、富岡製糸場と関連する県内の絹産業遺産についての説明が行われました。会は今後も、眼鏡橋ウォーキングや案内板の設置などを続けていく計画です。写真:3、講師のお二人、右が福田氏、左が萩原氏、下が眼鏡橋です。(軌道敷(アプトの道)を歩くことができます)

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2010年6月 2日 (水)

大道寺駿河守政繁公の末裔が松井田城と墓地を訪問。親子と会談しました。

2010528_005 松井田城は、後北条氏の西の守り、として関東平野の最西端、碓氷峠のふもとに広がる約75ヘクタール、難攻不落を誇った戦2010528_002 国時代最晩年の山城として有名です。1590年秀吉の小田原攻めに合わせて、西からの連合軍、武田、上杉、前田、真田軍など0917_009 に包囲され4月20日に落城したと記録にのこります。連合軍3~4万に対して3~4千の軍勢で一ヶ月持ちこたえたと09113_010 の記録にあるように、堅固な城だったようです。城主だったのが、大道寺駿河守政繁で、川越城と兼務だったと言われています。410年前に川越で切腹させられたということですが、墓は新堀の補陀寺にあります。このたび、名古屋から大道寺駿河守政繁の末裔だと言う親子が松井田町を訪ねてこられ、面談しました。落城後、子孫の一人が三重県の山奥に隠遁、名を替えて3代ほどすごした後、岐阜県へ移ったそうです。その後、松井田町へこられた方の先々代が1期、衆議院議員を務めたことがあったそうです。三重県の山中で暮らしていた時代に、先祖の文書などを残されていたため、いつかは大道寺駿河守政繁の城跡を訪ねたいと願っていたそうで、お二人は、宿の方の案内で城址へ登り、墓参りもされて、長年の思いがようやく実現したと喜んでおられました。私の祖先も城の家臣録、に載っている「寄騎 金井佐渡守」といわれ、3000石の扶持だったそうです。そのためか、今でも城址の本丸跡で他の4戸の「無量寺檀家」とともに正月13日に、「虚空蔵菩薩」の祭典を続けているのです。いずれにしても縁のある方と、思いがけずに会えてお話ができたことを、うれしく感じました。写真:宿舎の「まついだ森の家」で、中がお母さん、右が娘さん、2:補陀寺にある墓所、3:城址に建てられた大道寺駿河守政繁の石碑(場所が違っています、ここは安中城の出城でした)4:虚空蔵菩薩を祭る祠(09,1撮影)、本丸あとの物見やぐら跡(本来この場所に石碑はあるべき)

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