教育・文化・歴史

2013年12月26日 (木)

「襄と八重」田んぼミュージカル、最終公演が安中市郡役所でありました。少し長めのバージョンでした。聴衆を感動させました。

20131222_060 大河ドラマ「八重の桜」が終了しましたが、23日まで安中市郡役所で「新島襄・八重展」が開かれていましたが、この連休ですべ20131222_029 てが終了しました。この連休に郡役所の一室で、「2人だけのミュージカル田んぼ」が、ニューバージョンで「ならぬものはならぬのです」を上演しました。松20131222_050 井田文化会館では、時間が短かったのですがこの日は(22日)、約45分、襄と八重のピクニ20131222_055 ックや病で倒れる襄との別れなど、新しい場面展開が加わった素敵な舞台になりました。私の隣に座っておられたご婦人は、歓迎して涙を流しておられました。八重役が、山崎直子さん、母、覚馬、襄と一人3役とピアノ演奏の奮闘していたのが、嶋崎仁美さんでした。 次も楽しい企画を期待しています。

20131222_063_2写真1、「ミュージカル田んぼ」のお二人、2,展示会のパネル、3、襄との別れの場面、5、最後に記念写真(左端が感激したご婦人)

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2013年3月17日 (日)

あなたの未来が危ない! 憲法学習会

P2090441s 自民党安倍政権が掲げた「国防軍」の設置、世界中でアメリカと一緒に戦争ができるようにする・・・ための「憲法改革」が、大きな問題になってきました。そこで、非戦の願いを継ぐ安中・松井田の会(中嶋昇太郎代表)では、3月23日(土)、午後1:30から4:00まで、安中公民P2090445s 館〈新島学園西〉で、赤石あゆ子弁護士を招いて「世界に誇れる平和憲法を守ろう」と題して学習講演会を開きます。たくさんのみんなさんに参加を呼びかけています。資料代をいたP2090442s だきます。 写真は、2月9日安中勤労者会館で行われた安中革新懇主催の「日米安保条約がなくなったら、どういう日本になるか」として、群馬県平和委員会会長の小田暁夫さんの講演会です。安中革新懇の代表が、原田求さんから佐藤允治さんに交代、事務局長が萩原慧さんから山口さとるさんに交代しました。〈同日の総会で承認〉

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子どもたちの4割がアレルギー、学校給食視察

Dscn2612s_2  市議会総務文教常任委員会で松井田町にある「学校給食センター」を視察しました。この施設は平成14年4月から松井田町内Dscn2621s の小学校6校(711人)、中学校3校(407人)の子どもたちへ年間約200日、あたたかい給食を届けています。食材もできるだけ地元産の米や野菜を取り入れて、食育も進めているよDscn2623s うです。この日の献立は、カレーパン、エビフライ、チーズサラダ、とボルシチ(トマト味のスープ)でした(945kcal)。私は満腹になりましたが中学生男子ではお替り希望が出るとのことでした。栄養士や学校教育化の話を聞いて驚いたのは、アレルギー。小学生、Dscn2616s 中学生のうち約4割がなんらかのアレルギーを持っていて、卵やナッツ類、乳製品、イカ、エビなどに苦手な子どもがいて、自校方式で運営している学校(旧安中市内)では「除去食」を実施しているが、センターでは対応できないので、献立を事前にチェックして家庭から弁当を持参させている、とのことでした。原因としては、食生活の変化によるたんぱく質のとりすぎや食品添加物の増加などが挙げられると説明されました。私たちの給食は、小学校3年生頃からだったかと思いますが、甘くもないコッペパン、匂いだけ強くておいしくない脱脂粉乳などが思い出されます。なお、昨年5月頃からから「放射能汚染測定器」で、すべての食材を検査していることから、手順を見せていただきました。

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2011年8月 6日 (土)

教科書問題を考える集いがありました

Dscn6828 今年の6~7月にかけて、2012年から4年間、中学校で使われる教科書の「採択」が全国で行われました。4年ごとに行われているのですが、最近「新しい歴史教科書を作る会(1997年設立・藤岡信勝会長)」という日本の侵略戦争を正当化する人たちによって、「現Dscn6853_2 行の歴史教科書は旧敵国のプロパガンダをそのまま事実として記述している」として戦前の修身(道徳)教育や教育勅語などを美化する内容を盛り込んだ歴史教科書(自由社と育鵬社)を編修し、全国で採択させようと活動していることが問題となっています。すでに横浜市や東京都立養護学校など一部の地域で採択されています。  7月30日、この育鵬社の教科書を編集する代表「八木秀次高崎経済大学教授」が講師で、安中市で「日本の徳の心を学ぼう」というセミナーがあり、参加した萩原慧さんらから報告がありました。 それによると八木氏は「今の日本は自由で豊か、平和だが生きにくい。子どもたちは自由に生きよといわれ苦しんでいる、学校で価値が提示されず、人生で大切なものは何かを教えていない。人間として美しく生きる型=徳目を教えるべきだ。」として戦前戦中の『修身教育』の素晴らしさを説いていたということです。 その後高崎健康福祉大学講師の針谷正紀さんから「八木秀次執筆・監修 中学社会科教科書「新しいみんなの公民」を読んでと題して話がありました。・改正教育基本法の「公共の精神」「伝統の継承」「豊かな情操と道徳心を培う」「わが国と郷土を愛する」という観点に立つと自負・「国家に守られて生活する私」を強調し「個人」を軽視・国策に従うことの意義を強調・原発推進の立場・「神話の世界の天皇」から象徴天皇までの歴史を強調するなど日本を稀有な「独自の文明を持Dscn6850 つ国」として賞賛・大日本帝国憲法(明治憲法)を高く評価・日本国憲法の三大原理(主権在民、基本的人権の尊重、平和主義)を軽視・憲法制定過程をアメリカによる押し付けと一面化・憲法改正への誘導、などなどの点からこの教科書のねらいは「公に尽くす」スタンスから国策に対して従順に従う国民の育成をめざすものという説明が行われました。 さらに針谷氏は「国策にただ従順に従うことを求め、批判力を育てない教育では未来の主権者は育成できない」と述べ、・「個人を尊重する」ことを基点に基本的人権を尊重しながら平和主義を貫く未来の主権者を育てること・民主的に意見を交換できる能力を育てる・過去から謙虚に学び、より良い未来をめざす子どもたちを育成する・何が真実で何が大切かを考えることができDscn6851 る力を育てることこそ「公民教育」の目標です。と結論付けました。会では、教育勅語を暗唱させられ第二次世界大戦中、海軍に志願し九死に一生を得て生き延びた世代から、戦後生まれで「新しい道徳」などという教科書が初めて登場した経験を持つ世代まで幅広い参加者から活発な意見交換が行われました。針谷氏の余談から「東日本大震災で略奪も大きな混乱も起きなかったことに海外から日本人の規律正しい態度に賞賛の声が上がったことを八木氏が評価した発言に、八木さんは戦後の道徳教育はでたらめと評してきたが、今回の東日本大震災で示された日本人の行動は戦後の教育が正しかったことの証明、あなたの論理は矛盾しているではないか?」と質問したが八木氏は「立場が違うから」といって逃げていた。とセミナーでのやり取りも紹介されました。最後にこの会を「教科書問題を考える安中の会」として発足することを参加者全員で確認して閉会しました。なお高崎安中での教育委員会ではこれらの教科書を採択することはなかったようです。写真2,3,4は育鵬社の歴史教科書

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2010年3月28日 (日)

周永虎(チュヨンホ)さんの話を聴きました。松井田町で小学校を出た在日朝鮮人の方です。

2010328_015_2 2010328_019 周さんのお父さんは朝鮮から1932年ごろ13歳で九州へ渡りました。15歳で、先に日本で働いていた兄さんを頼ってきたのです。日本は1910年力づくで朝鮮を植民地にし土地を取り上げたり、創氏改名などで朝鮮の名2010328_021 前を無理やり日本の名前に変えさせたりしていました。生きるために、やむを得ず日本に渡り、大阪、川越、そして1944年ころ、 2010328_001 群馬県松井田町の一角に部落を作って住み、永虎さんが生まれ、松井田町の山に「弾薬庫」を掘る仕事に従事していました。2010328_007 終戦で仕事はなくなり、永虎さんは、当時「清吉」という日本名で、当時の松井田小学校へ通ったそうです。仕事がなくなった大人たちはどぶろく(密造酒)を作って売り、食物を手に入れていたこともあったそうです。周さんは、朝鮮人に対する日本人の差別問題について、関東大震災のころ(大正12年、1923)虐殺が行われ7000人もの朝鮮人が、流言飛語(朝鮮人が井戸に毒を投げ入れた・・・)によって命を奪われた、悲しい事件もあった。今、拉致問題に端を発した朝鮮批判がエスカレートして、都内の朝鮮学校など周辺に右翼の街宣車が毎日のように、「お前たちは朝鮮へ帰れ!なぜ、ここにいるのだ!」などと攻撃している。「私たちの祖先は日本軍の強制などによって、明成王妃(ミンビ)を虐殺され、土地を奪われ植民地とされてたことを反省している。現政府の閣僚でさえも、日韓併合条約は合法だった、と言っている、しかし国際法上では違法である。武力で他国の土地を収奪して、何で合法なのか?高校授業料無賞化も大阪府知事などは、認めないと言っている、しかし、今でも私たちは日本に多額の税金を払っているが朝鮮小学校、中学校へは何の援助もない。今度も高校無償化は除外だと言っている。拉致問題で私たちは『数十万人とも言われて同胞が強制連行された私たちの祖先にとって拉致は、ひどい犯罪だと身をもって感じていたが、北朝鮮が同じ拉致したことを認めたとき大きなショックを受け、本国にも総連にも抗議をした。しかし、今、拉致問題はまったく進展しない、制裁ばかりを言っているが、政府に利用されている、本当に解決する気持ちがない、政府がもっと冷静にならないと解決しないのではないか。』などと今の心境を語りました。講演会場から「日本が朝鮮に対してどのように過去を償えばよいと思いますか?」と質問があり、それに対して周さんは「800万人とも言えるユダヤ人などへの迫害を行った、ドイツの例を話しますが、ドイツはナチスドイツが侵した罪を①ナチスが行った犯罪に対する謝罪と補償、②ナチス戦犯への永久追及,③ナチ時代に何が行われたかを子どもたちに徹底して教育している。それに対して日本は戦後、中国や朝鮮などに対して、どんな反省と償いをしているのでしょうか?日本人の頭の中には近代100年の歴史の認識が抜け去っているのではないか?心からの謝罪がされていないのではないか?」などと語り、「差別意識をどうやってなくしたらいいか、同情だけではだめです。お互いに、歴史の事実に謙虚に学ぶことが必要、劣等民族と見ると差別し、偉そうな民族にはぺこぺこするのではいけない、どんな民族に対してでも言うべきことを言い、対等に接することが大事。」としてこれからも交流していきましょうと結びました。非戦の会主催のこの講演会には25名ほどが集まり、熱心に聞き入っていましたが最後に、松井田町小学校5年生のときの担任教師、早津隆先生も駆けつけ、紹介されました。今年は日韓併合100年の年です。写真:3、早津先生と周さん、4、周さんの祖先は700年代に唐の国から朝鮮に送られた人が始祖とされ、以後現代まで一族の系図『族譜』というものがきちんと本になって残されているのです。これには驚きですが、なぜ韓国、朝鮮の人々が親や先祖を尊ぶのかわかる気がしました。まして、尊い名前を変えるなどと言った『創氏改名』などに抵抗した意味がわかりました。5、中段が永虎さん、上がお父さんの代、下が子どもさんの代だそうです。

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2010年3月23日 (火)

簗瀬二子塚古墳公園の保存について市長らに申し入れしました。

2010317_007_2 安中市原市簗瀬地区にある、簗瀬二子塚古墳は、関東地方で最古とされる横穴式石室を持つ前方後円墳で、安中市域では最古、最大の重要な古墳として知られています。しかし、いまだ市の文化財には登録されていないために、市外には知らない人もいます。市ではこの古墳一体を「史跡公園整備計画」を策定し平成13年に、土地開発公社で約3,700㎡を買収し、最終的には周辺を約、20,000㎡ほどを買い足して行く計画を立てていました。2010323_003 ところがその後の買収計画がまったく進まず、所有地権者への説明や働きかけが中断したままとなっていたことから、このほど民間企業の宅地開発の候補地として、売買されることとなり、このままでは市の公園2010317_005 整備計画に大きな障害となることから、日本共産党安中市議団(桜井ひろ江団長、山口覚議員、金井久男議員)では、3月192010317_006 日、議会終了後、岡田義弘市長と中澤四郎教育長を訪ね「簗瀬二子塚古墳史跡公園整備に関する」申し入れを行い、史跡の2010317_002 保存と地権者への理解と協力を得ることなどを要請しました。 この開発予定地は、古墳の西側約8,000㎡の平坦地(図面の上ピンクの線内)で、この辺は八幡平陣城あとという説があり、武田信玄が永禄年間(1558~1566年)に上州攻めを行った際、ここに砦を築いたという。その城跡が確認されれば「国史跡」としてすぐにでも指定になるという貴重な場所であるという(群馬県古城塁址の研究 下巻・著者山崎一による) その根拠は、すぐ東にある首塚の資料などによるといいます。 首塚のいわれは、写真にあるとおりです。安中市は、都市計画道路などの開発で、この古墳の外溝部分を傷つけ、本来は国の史跡の価値がある文化財の価値を減退させたり、買収計画をないがしろにしてきた経過があり、多くの市民が望む文化財をしっかり守れるのかどうか心配です。写真:1竹林に覆われているのが古墳、2、図面は同じもの、右が設計図、3、首塚のほこら、4、説明版、5、古墳西側の開発予定地

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2010年3月 5日 (金)

上後閑小学校が23年度から休校になるようです。残念ですね。

2010305_003 昨年から安中市では「学校適正規模検討委員会」なるものが設置され、管内小中学校の統廃合の是非が検討されてきました。2010305_005 その結果が2月26日の議会全員協議会で報告されました。全校生徒10名の上後閑小学校(50年以上前は後閑小学校の分2010305_006 校)では、1,2学年、4,5学年が複式学級,6年生、特学の4クラスで3年生がいません。それでも先生10人でマンツーマン教育が行わ2010305_009 れて、子どもたちは地域のあたたかい村人に見守られながらのびのびと元気に生活しています。野鳥観察の指定校も受けて、環境は最高のなかで勉強しています。3月で3人卒業すると新入生がいなくなり、7人になってしまうようです。保護者のなかには、大きな学校で学ばせたいと後閑や原市小学校へ通わせる例も現れてきたということです。 人間の一生のうちで幼少期というのはごくわずかな期間です。小学校は歩いて通うことができる学校が一番だと思いますが、車で運ばれて大人数の知らない子どもたちと一緒の教室で過ごすのが、そんなに優れた選択とは思われません。 私は、お金がかかっても、身近な学校でたとえ独りになっても、存続していける学校のほうが、良いのではないかと思います。ヨーロッパの国々には、「過疎」という言葉がないそうです。街で働く若者が結婚をして子どもが生まれると、故郷に帰り田舎でのびのびとした環境での学校教育を選択するために、村は活気が維持されているといいます。こんなにせまい日本のなかで、もっとのんびり子どもを育てることができないのでしょうか?写真:玄関を入ると、全校生徒の写真が貼ってあります。(2)、どこの学校にも長い歴史と思い出が詰まっています。古い写真がそれを物語っています。(3)、土地の条件がなくて、歩いて2分のところに新しい立派な体育館も整備されています。こんなすばらしい環境があっても、わざわざ4キロも離れた「本校」に通学しなければならないって、もったいない気がします。その後閑小学校でも、全校生徒はすでに60人ほどになっているのですから。

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2009年9月21日 (月)

碓氷関所を国の史跡として復元を!シンポジウムひらかる。

9919_017_2 052_2 「碓氷関所の歴史と現在」と題して9月19日、文化会館大ホールでシンポジウムが開かれ300名ほどの人が集まり、報告者の話に耳を傾けました。主催053_2 は、交通史研究会・安中市・安中市教育委員会、後援は、文化庁、県教委、関所保存会(地元)でした。コーディネーターは九州大学名誉教授033 の丸山雍成氏、ほかに東海道の新居関所について報告したのが愛知大学教授の渡辺和敏氏、碓氷関所と安中藩について話し035_3 たのは安中市文化財調査委員で松井田町在住の佐藤義一氏,中山道、近辺の街道と碓氷関については、群馬県立文書館係長の岡田昭二氏、小野直遺文書と中山道碓氷関所については、安中市文化財調査委員の淡路博和氏、そして最後に箱根関所の復元について報告したのは、箱根町教育委員会技監の鈴木康弘氏など、そうそうたるメンバーの皆さんでした。  碓氷の関所は遠い平安時代から西国と関東を結ぶ街道の要衝として、それぞれの時代の支配者によってもうけられてきたが、現在門扉が残る跡に設置されたのは、元和9年(1623)頃だったといわれる。東は安中藩が西門は幕府が管理していたといわれ、近年発見された絵図などによると、関所構内は木柵や矢来で囲まれ、北側の石垣上に番頭住宅、平番長屋、作事小屋、武具掛け高札場があり、道の南側は、定附同心や西門番の長屋となっていた。廃関は明治2年(1869)といわれ、破壊されたが、かつての同心の一人、後閑カンゾウという男が、東門の焼却をうまく免れ、狩野ショウジロウ、という人物とともに原市に隠しておいたことが、後年になって、実物の門が残ったといういわれがある。いずれにしろ、丸山教授という方は関所にかけては日本一の研究者で、箱根の復元に大きな力を果たしたというので、次は横川、碓氷の関所を復元したい、といった熱意が伝わってくるシンポジウムでした。:写真:会場風景、2、3枚は復元された箱根の関所(芦ノ湖、富士山が見える)、4,5枚目は復元された木曽福島の関所(長野県木曽町)、

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2009年5月24日 (日)

非戦の牧師、柏木義円をたずねて新潟県与板へ行ってきました。

9523_023_2 平和の使徒、新島襄は、全国でも有名ですがその新島襄から教えを受け、元は新潟県の寺の跡取りだった者が、同志社を卒業しキリスト教に改宗し安中教会の牧師となって地元安中市を中心として布教活動をした柏木義円さん、についてはまだまだ深く知られていません。この義円さんの偉大なところとは「非戦」思想を貫いて、自ら編集発行していた「上毛教界月報」という雑誌に、満州事変(1931年)から始まった日中戦争に対して「満州から兵を引き上げよ!」と訴え続け、発禁処分にされたり警察に検挙投獄されたりしながらも、筋を曲9523_013 げないで「非戦」を叫び続けたというところでしょうか。義円さんの故郷は、与板町ですが、5月23日、「非戦の願いを継ぐ安中・松井田の会第41回学習会」で私たちが訪ねた「真宗大谷派西光寺」には、安部さんという家族が寺を守ってはいましたが、生誕の地では、一本のぼっくいが立っているだけでした。与板の人たちにしてみれば寺を捨ててキリスト教に改宗した、跡取りには何の親しみも湧かないといったところでしょうか。しかも与板では、今を盛りに「直江兼続と妻、お船」ブームに染まり、本来は「民俗資料館」だったものが「兼続お船ミュージアム」などと看板が架け替えられておりました。NHKの恐ろしさです。それはさておき、一行25人は西光寺にて昼食をいただき、同行してくれた柏木義円のお孫さんにあたるベーケン恵(けい)さん(安中3丁目在住)から、義円と私という内容で30分、お話を聞くことが出来ました。義円さんは、妻かや子さんとの間に7男2女をもうけましたが、清貧のなかでも力強く生き、多く9523_018_2 の市民から慕われていたということです。恵さんは長男、隼夫さんのお子さんだそうです。ちなみに、柏木義円は、万延元年(1860)のうまれですが、明治の初め1882年からの数年間、碓氷郡細野東小学校(現在の九十九小学校)で、校長として教壇に立っているが、そのとき私の祖父、金井辰三郎の兄、彌十郎(次男)、ぶん(長女)の2人が、ここで教えを受けていました。卒業証書があったのでわかりましたが、まったくの偶然です。その後義円さんは学費をためて同志社大学へ入学し、牧師の道を歩んだいったようです。安中の下野尻にあ9523_019 る「西広寺」は、義円さんの子孫が墓守をしています。もっともっと義円さんの生涯や活動が明らかにされて、多くの市民に理解されるようにしたいものです。写真:1、西光寺の墓地前で、2本堂で恵さん(中央)の話を聞く、3、柏木家、と現住職安部家の先祖の墓の前で、4、駐車場の看板に負けている「柏木義円生誕の地」看板

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2009年3月21日 (土)

享保びなほか千体の雛人形が待っています。茶屋本陣は郷土資料館。

015_2 毎年の行事ですが、松井田町五料の茶屋本陣、お西には千体を超える雛人形が日本間にびっしりと並べられお客様を待っています。20年ほど前に松井田町内外の皆さんに呼びかけて『飾らなくなった古いお雛さま」を寄付してくれませんか?と募ったところたくさんの人形が集まったというわけです。私もたまたま家の新築のために蔵を片付けた際、一番古くて怖い(子どものころは気味が悪かった)お内裏様を寄付しました。それが、館で最も古い『享保雛』です。(写真上・約280年前のもの)蔵の中ではねずみにあらされるままですし、娘も成長した後はめったに出すことも08213_002 9315_4_2 無くなったので『毎年、多くの皆さまに見ていただけて、お祝いしてもらえるようになって良かったな』と思っています。皆さんもお出かけになったら古いお雛様にあってやってください。  お内裏様も立派ですが、上段の間に飾られる『裃雛(かみしも)』も素朴でいいですね。あるとき、80歳になる伯母を案内したときのこと、ずらっと並べられた裃雛を見渡して、『あっ、あれがあたしがもらった人形だ!!』と叫んだのです。裏を返してみるとなるほど私が寄付したもので、伯母の名前が書いてありました。おばが嫁いで50年余、たまには実家で見たでしょうが、何年もたって、自分がもらった人形を顔と衣装だけを見て、とっさに探し出せるなんて全くの驚きでした。その伯母も4んねんほど前に鬼籍に入りましたが。大正、昭和の初期物が不足していた時代に『たった一つもらった』自分の宝物だったのでしょう。そんな思いでこの裃雛を見ると、一人ひとりの少女の思いがこもっていて、とてもいとおしい気がするのです。この人形たちの中でたった一つ青い衣装のかみしもを着た人形がありますが、それも金井家から寄付したものです。ぜひごらんください。※下の写真は、市のALT(カナダ出身)3名に茶屋本陣を案内した記念です(09.3.15)

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