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2010年6月 2日 (水)

大道寺駿河守政繁公の末裔が松井田城と墓地を訪問。親子と会談しました。

2010528_005 松井田城は、後北条氏の西の守り、として関東平野の最西端、碓氷峠のふもとに広がる約75ヘクタール、難攻不落を誇った戦2010528_002 国時代最晩年の山城として有名です。1590年秀吉の小田原攻めに合わせて、西からの連合軍、武田、上杉、前田、真田軍など0917_009 に包囲され4月20日に落城したと記録にのこります。連合軍3~4万に対して3~4千の軍勢で一ヶ月持ちこたえたと09113_010 の記録にあるように、堅固な城だったようです。城主だったのが、大道寺駿河守政繁で、川越城と兼務だったと言われています。410年前に川越で切腹させられたということですが、墓は新堀の補陀寺にあります。このたび、名古屋から大道寺駿河守政繁の末裔だと言う親子が松井田町を訪ねてこられ、面談しました。落城後、子孫の一人が三重県の山奥に隠遁、名を替えて3代ほどすごした後、岐阜県へ移ったそうです。その後、松井田町へこられた方の先々代が1期、衆議院議員を務めたことがあったそうです。三重県の山中で暮らしていた時代に、先祖の文書などを残されていたため、いつかは大道寺駿河守政繁の城跡を訪ねたいと願っていたそうで、お二人は、宿の方の案内で城址へ登り、墓参りもされて、長年の思いがようやく実現したと喜んでおられました。私の祖先も城の家臣録、に載っている「寄騎 金井佐渡守」といわれ、3000石の扶持だったそうです。そのためか、今でも城址の本丸跡で他の4戸の「無量寺檀家」とともに正月13日に、「虚空蔵菩薩」の祭典を続けているのです。いずれにしても縁のある方と、思いがけずに会えてお話ができたことを、うれしく感じました。写真:宿舎の「まついだ森の家」で、中がお母さん、右が娘さん、2:補陀寺にある墓所、3:城址に建てられた大道寺駿河守政繁の石碑(場所が違っています、ここは安中城の出城でした)4:虚空蔵菩薩を祭る祠(09,1撮影)、本丸あとの物見やぐら跡(本来この場所に石碑はあるべき)

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