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2009年8月10日 (月)

満蒙開拓青少年義勇軍の体験記を語る、小俣喜一郎さん

0981_001 8月1日(土)、安中公民館で「満蒙開拓義勇軍」について、岩井に住む小俣喜一郎(80)さんが約1時間にわたって講演され、非0981_004_2 戦の会の会員ほか21名が参加しました。小俣さんは昭和4年1月14日生まれ、太平洋戦争が激しくなり、日本が敗戦に向かっ0981_010 ていこうとする時期、1943年5月30日、わずか14歳で、新潟から満州へ渡りました。きっかけは、政府が1936年から国策として行った侵略した中国東北部の「満州国」へ「農業移民の推進」のため学校の教師が、比較的貧しく家族兄弟が多い家庭を中心に「満州へ行けば、一人10町歩(10ヘクタール、100万㎡)の土地がもらえる、というのが殺し文句で14歳から19歳の若者を大陸に送ったのです。茨城県内原訓練所というところで2ヶ月の訓練などを受け、新潟から船に乗せられ、北朝鮮の羅津に上陸、そこから列車に乗せられてロシア国境に近い北安省鉄驪に入植、1年半、開拓作業に明け暮れたそうです。夏は短く、冬は零下20~30度の世界、ペーチカと呼んでいた暖炉が燃えていても息がかかると布団が凍るほどの寒さの中で、ペストやチフスの伝染病と闘いながら、働いたそうですが終戦間際、関東軍はすでに南方へ逃亡し、民間人だけで列車で逃避行、途中炭鉱で働かされたりしながら、昭和21年8月30日、長崎の佐世保港へ上陸、家に帰ったら母親が暑い中で汗をかきながら、、お切りこみを打って食べさせてくれたことが今でもまぶたに焼き付いているそうです。まさに九死に一生、で帰国できた小俣さん「当時は何もわからず国のため、親のためにがんばってきたが戦争がすべて、戦争だけはいけない。今、自衛隊をイラクまで送っている現実を見て、悔しい。なんて馬鹿なことをやっているのか、と」などと語ってくれました。  会場からの発言があり、松井田町下増田の小板橋栄子さん(72)は、私は父が先頭で一家で昭和16年ごろ、移住しました。そしていったん身内の葬式で帰宅したことがありましたが再度、渡満、敗戦で馬ぞりに荷物を乗せて逃げてきました。途中,ハルピンで、子供を日本の学校へ留学させていた裕福な中国家庭に助けられ、学校に行かせてもらえたが、父とは、大きな飛行場の跡地で別れましたが、それがシベリアへ抑留されていたと後になってわかりました。敗走によって二人の弟、一人の妹を失い、昭和21年に、母と二人で帰って来ました。当時8歳でしたので、どこがなんていう町かも覚えていませんが。と、一緒に開拓団に加わった多くの家族が悲惨な経験を持って帰国したと言う体験談があきらかにされました。詳しいことは「満州移民」「満蒙開拓青少年義勇軍」「中国残留孤児」などを検索して参考にしてください。写真:義勇軍の帽子と制服を着用して話す小俣さん。下、中の女性が小板橋栄子さん。

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