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2009年8月

2009年8月14日 (金)

原水爆禁止世界大会2009年長崎に参加してきました。

098789_017_2 7日から9日まで長崎市で開かれた原水爆禁止世界大会2009に、安中では3人、小俣喜一郎さん (80)、橋爪文夫さん(58・松井田高校)と私で参加してきました。3日間とも快晴が続き暑い長崎でした。098789_115_2 開会総会 は7000人の規模で、海外からは28カ国、83名の参加でした。今年の大会は、4月チェコのプラハでオ バマ米大統領が行った演説「アメリカは核兵器を使ったことのある唯一の国として、行動す る責任がある」と述べ、核兵器のない世界のために行098789_040_4 動する。と言ったことに、ほとんどの参加者が 発言の中で触れ、核廃絶が現実のものとして見えてきた、ことに感 動し、活気のある大会になりました。 広島の平和祈念式典で市長の平和宣言を始め、長崎でも同じように期待が語られました。それと反対に、日本政府がアメリカ政府に対して「核の傘をなくすなら、日本は核武装するかもしれない・・」098789_055_2 などと被爆国の政府にあるまじき言動をしていることに怒りがこみ上げてきます。こんな政府は一刻も早く退陣させましょう。この大会の中で、たくさんの方とめぐり合いました。ベトナム平和委員会のブイ・ヴァン・ギさん、7年前平和行進で我が家に泊まったことがある豊田一子さん、098789_078_2 元保谷市長で赤城村出身の都丸哲也さん(87)、アメリカ退役軍人「ざんげの旅」グループのルイスさん、その他、平和市長会議に参加していたスリランカの市長さん(名刺をもらえなかった)、などでした。私は、平和記念式典で開会前に被爆者の皆さんが歌った「浦上(うらかみ)」という歌に感動しました。098789_101_3 浦上とは、64年前原爆が投下された町の名前で、真上で被爆しながらも、浦上天主堂という歴史のある教会が残されています。098789_103_2 写真3、豊田一子さんを中に、4、左端がベトナムのブイさん、5、平和記念像の前で都丸さんと、6、ざんげの旅のルイスさん、7、被爆者の皆さんのコーラスグル-プ96から36歳)

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2009年8月10日 (月)

満蒙開拓青少年義勇軍の体験記を語る、小俣喜一郎さん

0981_001 8月1日(土)、安中公民館で「満蒙開拓義勇軍」について、岩井に住む小俣喜一郎(80)さんが約1時間にわたって講演され、非0981_004_2 戦の会の会員ほか21名が参加しました。小俣さんは昭和4年1月14日生まれ、太平洋戦争が激しくなり、日本が敗戦に向かっ0981_010 ていこうとする時期、1943年5月30日、わずか14歳で、新潟から満州へ渡りました。きっかけは、政府が1936年から国策として行った侵略した中国東北部の「満州国」へ「農業移民の推進」のため学校の教師が、比較的貧しく家族兄弟が多い家庭を中心に「満州へ行けば、一人10町歩(10ヘクタール、100万㎡)の土地がもらえる、というのが殺し文句で14歳から19歳の若者を大陸に送ったのです。茨城県内原訓練所というところで2ヶ月の訓練などを受け、新潟から船に乗せられ、北朝鮮の羅津に上陸、そこから列車に乗せられてロシア国境に近い北安省鉄驪に入植、1年半、開拓作業に明け暮れたそうです。夏は短く、冬は零下20~30度の世界、ペーチカと呼んでいた暖炉が燃えていても息がかかると布団が凍るほどの寒さの中で、ペストやチフスの伝染病と闘いながら、働いたそうですが終戦間際、関東軍はすでに南方へ逃亡し、民間人だけで列車で逃避行、途中炭鉱で働かされたりしながら、昭和21年8月30日、長崎の佐世保港へ上陸、家に帰ったら母親が暑い中で汗をかきながら、、お切りこみを打って食べさせてくれたことが今でもまぶたに焼き付いているそうです。まさに九死に一生、で帰国できた小俣さん「当時は何もわからず国のため、親のためにがんばってきたが戦争がすべて、戦争だけはいけない。今、自衛隊をイラクまで送っている現実を見て、悔しい。なんて馬鹿なことをやっているのか、と」などと語ってくれました。  会場からの発言があり、松井田町下増田の小板橋栄子さん(72)は、私は父が先頭で一家で昭和16年ごろ、移住しました。そしていったん身内の葬式で帰宅したことがありましたが再度、渡満、敗戦で馬ぞりに荷物を乗せて逃げてきました。途中,ハルピンで、子供を日本の学校へ留学させていた裕福な中国家庭に助けられ、学校に行かせてもらえたが、父とは、大きな飛行場の跡地で別れましたが、それがシベリアへ抑留されていたと後になってわかりました。敗走によって二人の弟、一人の妹を失い、昭和21年に、母と二人で帰って来ました。当時8歳でしたので、どこがなんていう町かも覚えていませんが。と、一緒に開拓団に加わった多くの家族が悲惨な経験を持って帰国したと言う体験談があきらかにされました。詳しいことは「満州移民」「満蒙開拓青少年義勇軍」「中国残留孤児」などを検索して参考にしてください。写真:義勇軍の帽子と制服を着用して話す小俣さん。下、中の女性が小板橋栄子さん。

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2009年8月 6日 (木)

今日はヒロシマの日、8月6日です。黙祷しました。

Hiroshima_summer_008_2 世界で初めて、人類の上に原爆が落とされた日です。8:15分、ヒロシマではいつものように原爆被災者の慰霊のための、平和記念式典が行われました。私も車の中で黙祷をしました。Hiroshima_summer_081 1945年7月末、米国の大統領、トルーマンは、日記にこう記しています。「歴史が始まって以来、最も恐ろしい爆弾を開発した。ユーフラテス川流域に文明が栄えた日による破壊を、目の当たりにすることになるかもしれない」「野獣には野獣なりに」と日本人を野獣と呼び、「アメリカの25万人の若者の命は、日本のいくつかの町と同じ価値がある」と述べ、原爆の投下を命令したのです。そして彼は一生後悔しなかったそうです。 2009年4月、オバマ現大統領は「世界で始めて核兵器を使用した国として、責任がある。核兵器は廃絶されなければならない」「武器を捨てることを呼びかけるより、武器を取ることを呼びかけるほうが人々の感情をかきたてる。だからこそ私たちは団結し、平和と進歩を求める声を上げなければならない」64年目の夏、私は明日から「ナガサキ原爆の日」、「原水爆禁止2009世界大会・ナガサキ」に参加してきます。3日ほど留守になりますがよろしく。写真上:3年前のヒロシマ大会の総会の様子、下、原爆ドーム周辺

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2009年8月 2日 (日)

市街地活性化で滋賀県を訪ねました。(その1)秀吉と町衆の400年のまち長浜市

0972324_012  安中市議会まちづくり特別委員会に3つの分科会があり、1、市街地活性化 2、信越線問題 3、観光問題、それぞ0972324_006 れ7名が所属しています。このほど、市街地活性化委員会では、滋賀県長浜市と彦根市を訪ね研修してきました。0972324_005 まず、長浜市ですが、豊臣秀吉以来、山内一豊、石田三成など歴史の材料には事欠かないまちです。全国では0972324_009_2 「曳山まつり」という、大きな山車のうえで行われる子供歌舞伎が有名です。人口は約10万人、現在も隣接町と合 0972324_015

併が進行しているそうですが、やはり30年ほど前から市街地の空洞化、大型店の進出などで商店街の大通りには、日曜日一時間内に4人と一匹しか通らなかったといいます。そこで20年ほど前に立ち上げた「株式会社黒壁」を核とした街づくりに着手、基本理念は地域生活者を中心としたこと、そうでないと「曳山まつり」を継承していけなくなるからだといいます。 きっかけは平成8年、「秀吉博覧会」というイベントを運営委員400名で成功させたあと、この力を街づくりに生かしていこうとして作られたのが「まちづくり役場」(現在はNPO)、でそれ以来町全体を「博物館」にして行こうといった構想が発展し、銀行、教会などに使われてきた建物、外観が黒い壁で出来ていたために「黒壁」を「ガラス館」に改造し、若い女性が集まれる核施設にしたことから今日まで、努力を続けています。 町の中を北国街道が走り、せまい昔ながらの横丁がたくさんある、どこか懐かしさが感じられるまちでした。私が興味を持ったのは、かつての生糸産業「長浜ちり緬」は有名でしたが、今は機屋さんは2軒ほどしかないそうです。しかし、ここで行われているイベントのうちで「2000人振袖集会」です。大通寺というおおきなお寺の境内に振袖を着て集まった女性に町を歩いてもらうのだそうですが、この前日は、街中のすべての美容室は大盛況だそうです。ごほうびは、海外旅行から自動車などの商品を抽選でプレゼントするそうです。話題性があり、若者の集客には効果大でしょうね。そんな提案を碓氷製糸の組合長にしましたら、ぜひ実現してくださいよ、と言われました。富岡市と連携してやりたいですね。※詳しくは「長浜市株式会社黒壁」を検索してみてください。写真 上から、大通寺の門前町、昼食を食べた食堂、昔の建物そのもの、次は内部の様子、街づくりについて1時間しゃべりっぱなしの吉井茂人さん、まちなかの案内板

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